サンキュータツオ随筆集『これやこの』を読んでの雑感(思いつきの個人的な内容なのであしからず)
「これやこの」
これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)
これがあの、生死の際ですれ違い、知己も他人も会う坂の関(勝手現代語版短歌)
この本の約半分を占める標題の中篇随筆。
サンキュータツオさんがキュレーターを務める「渋谷らくご」開始の経緯と、「渋谷らくご」での柳家喜多八と立川左談次の晩年の高座の様子を描いている。
私が落語を聴き始めたのは最近のことなので、柳家喜多八師匠には間に合っておらず、高座を拝見したことは無い。弟子の小八師匠しか知らないが、その小八さんの落語をイメージしながら読んだ。小八さんは落語家っぽくない良いお顔をされている。(反対に、自分にとって落語家っぽい良いお顔の代表は雷門小助六師匠。早速の蛇足。)
立川左談次師匠は、私が初めて生の落語を聴いたのが2017年9月の渋谷らくごでの師匠の落語生活50年記念興行だったので、とても思い入れがある。
東京ポッド許可局でサンキュータツオさんのことを知ってたので渋谷らくごの存在も知ってはいたが、足を運んだことはなかった。2017年4月にTBSラジオで「問わず語りの松之丞」が始まり、そのイベントで初めて生の演芸に触れていいなと思っていたところで、Twitterのフォロワーさんに左談次師匠のファンが多く、その記念興行に興味を持ったのが行ったきっかけだった。(ちなみに私の初めての相互フォローの落語家さんは「立川談志最後の弟子」で談志師匠が亡くなったあとに左談次師匠の弟子となった立川談吉さん。蛇足。)
記念興行という晴れの舞台にはにかんでいるような師匠がとても魅力的だった。(この本を読んで、本当に想いがこもった特別な興行であったことがよくわかった。)
Twitterで興行の感想を呟いたら、師匠から丁寧なリプライを頂いた。
「有り難う、どうぞ長い目で見てやって下さいまし。」
「時たまハッとするような良い出来に出くわします、そこが醍醐味かな。」
師匠の訃報に触れたのも、飲み会帰りに見たTwitterで、酔いがスッと覚めた感覚を覚えている。
「これやこの」以降も、「粒揃い」という言葉がピッタリの随筆が並んでいる。その雑感。
「ツインの老人」
仕事が肉体的にも精神的にも超ハードだった頃、時間をかけての通勤が辛くて会社近くのカプセルホテルに連泊していたことを思い出す。一泊3千円、会員カードを作って2,700円だったか。
風呂に入り、自販機のカップヌードルをつまみに缶ビールを飲み、歯を磨いてカプセルに倒れ込む!あのとき死んでてもおかしくなかった気がする。でも死んでたらこの本を読めなかった。生きててよかった。
「八朔」
私は小学校に上がるまでは母方の祖母と同じ家で暮らしていた。祖母は毎日小遣いをくれてとても優しい人だった。「おばあちゃん」は孫に対して大概優しいのかもしれないが、父型の祖母が厳しい人だったので、対比で余計にそう感じた。
実際には母方の祖母も、戦争で夫(自分にとっての祖父)を亡くし、女手一つでお店をやって4人の子供を育てたとても厳しい人だったらしい。毎晩、寝る前に炙った酒粕を食べていた。
祖母は風呂に入っているときに心臓が止まって亡くなった。ほぼ老衰とのことだった。
「時計の針」
修学旅行先で、新婚の奥さんに嬉しそうに電話してた地理の先生のことを思い出した。先生がその後どんな人生を送ったかは全く知らない。
「明治の男と大正の女」
本文中の「死は、順番通りが良い。」という一節を読んで、私の人生に関わった、順番を守らず亡くなった人たちのことを思った。
高校の同級生で夏休み中に電車の中で倒れて死んだK君。
会社の一個上の先輩で、自分の同期の女性と結婚した、エヴァの食玩くれたI先輩。お葬式は教会だった。
夢だった職業に就いて、軌道に乗り始めたところで白血病で亡くなった従姉妹のSねえちゃん。母親以外で初めて女性の裸を意識して見たのはSねえちゃんだった。(なんかへんな誤解を生みそうだけれどちっちゃい頃の話。)
ダイエットのために青魚を食べていたK先輩は自死した。パワハラだったと聞いている。
強面だけど優しかった同期のMも自死だった。大森の三田製麺所での一度だけの二人だけのランチ。
この本を読んで、こうした人たちのことを記憶してたまに思い出すことも、人が生きていることの意味の一つのような気がした。